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1.扒村の笛 (陶説507号 1995.6.1) この春、小山岑一氏よりお誘いを頂き、中国北方名窯視察団に、参加いたしました。 ハプニングがたまにある中国旅行ですが、案の定、出発の定刻になっても、上海からの折り返し便の飛行機がまだ上海を出ておらず、仕方なく、空港レストランにて何時になるとも未定の時間を、久しく食べることの出来なくなる刺身,天麩羅、そして日本酒で気持ちの中ではもう旅行気分(ちなみに前回はガイドが航空チケットを忘れたとか)。結局、上海経由、西安のホテルに着いたのはもう、真夜中を回っていました。 こんな旅立ちでしたが、中国国内はすべて順調で、無事全員楽しい思い出と十二分の収穫をもって帰国いたしました。 今回は、銅川市黄堡鎮「耀州窯」、汝州市「臨汝巖和店」、禹県「釣台瓷窯」「扒村窯」、磁州「澎城窯」「富田窯」「観台鎮冶子窯」、定州「澗磁村窯」の各窯跡と、各地の博物館、考古学研究所、古陶磁研究所などを見学してまいりました。 数多くの窯跡の中で、河南省禹県「扒村窯」の見学の折り、窯跡といっても現在は麦畑になっており、崖の断面と、畑の畦に沢山の破片と窯道具が散積している状態でした。畦道を歩いていると、ふと、足元の泥塊の中に、小さな穴のあいた一センチ位の印文ある丸い梅干の種のようなものを見付けました。 拾い上げて付いている泥と、穴の中の詰まった泥を細い木片でつついてみると、ひょっとするとこれは・・・・・。口を当てて息を吹くとピィーと音がでました。 ご案内頂いた現地の考古学研究所の先生に見せたところ、笛とのこと、しかし窯に入っておらず生素地とかで手渡してくださいました。その夜、ホテルで恐る恐る歯ブラシで泥を取り、水に浸してみても溶けませんでした。扒村の窯跡では、釣窯風のもの、磁州窯風の鉄絵、黒釉が沢山あり、そして宋三彩の破片を少し見ることが出来ました。となると、この笛はきっと三彩にする半製品ではないかと確信しました。きれいに洗っておもいきり吹くと、中国、扒村の大平原のまっただなか、数里は響く、高くすみきったきれいな音がします。「よびこ」か「子供のおもちゃ」なのか。中国宋磁に憧れる私にとって、これは、宋時代からの音のメッセージ、この上ない今回の賜り物となりました。吹き口の反対側には針でつついたような小さな穴があり、これも何とも言えぬあき具合で、早速、糸を通し首に掛け、肌身離さず帰国いたしました。 最近の発掘調査で知ってはいましたが、数多くの窯跡をこの目で見、驚きました。それは、北方の窯々ではなんでも焼いていたこと、たとえば、耀州窯では磁州窯風、釣窯風、三彩もあり。釣窯では磁州窯風、耀州窯風の物が沢山あり。磁州窯では白磁があり。定窯でも磁州窯風の物があり。交通の便の不自由な時代、あの荒涼たる大平原を数百里も離れていても、時のニーズに応えそれを作っていった、中国の「焼き物人」の逞しさを感じました。 いずれ、・・・・様式とか、・・・・タイプ、あるいは、技法による分類方法で呼ばれるようになるのでしょうが、中国陶磁の魅力にみせられている私にとっては、「・・・・青磁」、「・・・・窯」といったらそれらを思い浮かべ、その魅力を想像して膨らます世界はロマンもあり、いつまでも取っておいてほしいと思います。それと、以前、小山富士夫先生がおっしゃった「北方青磁」という呼び方は、今回現地を訪れてみて、このほうが相応しいと、先生の御見識の深さを痛感しました。 2.父への土産 (陶説 508 1995.7.1) 盧生の「夢の枕」で有名な河北省邯鄲よりバスに揺られ一路、磁州窯々跡のひとつ「観台鎮」へ向う。 山間に入ると左右に幾つもの“窯”?がみられるが、天井部分より炎がいきよい強く吹き出している。真っ平らな長方体の窯で何を焼いているのだろうと、バスを止めて近くによって調べてみたところ、コークスを作る窯であった。長方体の箱形の窯に、石炭を一杯に入れ天井部分を塞ぎ、下より火をつけ完全に火が回ったところで上より水を掛けて消し、コークスが出来るとのことであった。そういえば、窯のそばには水路があり水の便がよくなっていた。 窯といえば、河北の焼石灰を焼く窯もおもしろかった。円柱の窯で一回一回壊すのだ。材料を積み上げながら回りはレンガで囲っていき、高いものでは十メートル近くまで高く積み上げ、焼き上がると窯肌のレンガを壊しながら焼石灰を取り出す。焚口だけは残しておいて叉レンガを積み上げながら材料を入れるのだ。不合理と思ったが、このほうが窯詰め窯出しが楽なのか?こんな窯を沢山見ながら、ようやく、璋河を渡り「観台鎮」に着く。 「観台鎮」窯跡では、白釉、黒釉、劃花、掻き落とし、鉄絵などの破片が沢山見られた。そんな中、白地劃花の鉢で、外側が黒釉になっている高台部分の破片を見つける。思わず、『あァ これは!』…… いつぞや、父が日本橋の古美術商のお店で個展を開催させて頂いた折り、会場の下にある常設のケースの中に磁州窯の鉢があった。会期中、幾度となく見に行っては思案していた。最終日に思い切ってお願いして手に入れたものだが、内側が白地劃花で外側が、黒釉である。早速、黒い塗り蓋を作り水指に見立てた。茶室で使うとき、塗り蓋を取るタイミングが楽しくてたまらない。ほの暗い道具畳に塗り蓋がきせてあるうちは全体が真っ黒である。塗り蓋に手を添えながらお客の視線を感じたとき塗り蓋を取る、その瞬間、パッと真っ白な内側が目に入る、お客様は『あァ』と口が開く、やみつきで何度も父は愛用している。この鉢が生まれたところは、『ここなのだ!』、高台内に黒釉が輪状に掛かっているのも釉掛けの癖(浸しがけ)がぴったり一致する。いけないことは知りながら、無理をいってポケットにいれ、父への土産とした。 この破片はこの鉢の箱の中に一緒に納まっている。 3、よびつぎ (陶説509号 1995.8.1) 河北省・磁州窯の中で、現在も焼き続けている窯が彭城鎮にある。焼いているといっても、今回見ることの出来た窯は耐火レンガ工場であったが、その作業風景が大変参考になった。そこでは耐火レンガを木枠の型を用いて粘土を木片で叩き込むのだが、作業台というテーブルがまったく無い、作業台は土間である。職人は土間より七十センチぐらい低く掘った溝に入って、土間を作業台として仕事をする。レンガ土を叩き込むには相当の圧力で強く叩かねばならない。もしテーブルならば、よほど頑丈なものが必要だが土間ならそのままでよい。型から抜いたレンガもそのまま横滑りにして乾燥場まで動かすのもさほど労力を使わないし、土の魂であるレンガを持ち上げたり、下ろしたりする必要もない。至極理に適った作業風景であった。 その窯のとなり村に、富田窯という窯跡がある。今は破片の山が築かれており、その昔、小山富士夫先生がこの山の頂に立たれた写真がある有名な破片の山である。現在回りは住宅地になっており、ご案内頂いた邯鄲の馬忠理先生によると、この山の破片は、今、家を建てるときに床下に敷く材料となっているとのことで、水はけが大変良く、この辺の家の下は皆この破片が敷きつめられているとのこと。驚いた……。遠くはるばるここまで来て感慨に耽って眺めている破片が、現地では床下の捨材とは、いくら『山』とあると言っても何と贅沢な人達であろう。もしこんなことが許され自分のアトリエの下が宋磁の破片であったなら、『私はこの上に立って仕事をしている』と言う、嬉しさと、緊張感で、もっとましな作品が出来るのではないか。いや、そんなことをしたらきっと天罰が下る。 その破片の山に登り、先生に倣って記念写真を撮る。ふと、足元に白無地でぐい呑にぴったりな寸法の破片(と言ってもかなり大きい)を見つける。これをもう一つ見つければ……。破片の山を木片で崩し崩し一生懸命探した。ようやく見つけ、どうせ捨て材になるくらいなら、……ふたつをポケットに入れてしまった。帰国後、ひとつを、もうひとつの足らない部分の型紙を作りその形に切って、『よびつき』とした。ちなみに、今回ご一緒した梅原偉央氏もまったく同様のことを考えておられ、先日写真交換会の折り、彼の「よびつぎ ぐい呑み」を拝見する。いずれ近い日、この「破片のツーペア」が「ワンペアのぐい呑」となった記念の会を開き、苦労して探した思い出と、感激をこのぐい呑みに、美味しいお酒をみたし振り返りたい。さて、このときの徳利は、その夜、邯鄲での夕食後、外出し、町の屋台にあった銀か錫と思い込んで買った水注(暗くてわからず真鑈であった)を用い、そばには、『磁州窯の陶枕』を置いて楽しい夢でもみよう。 4. ねりあげの玉 (陶説510号 1995.9.1) 今回の視察団にご一緒したメンバーは、美濃の陶芸家の皆様でほとんどの方が中国古陶磁の収集にも関心があった。訪問した各都市でちょっとした時間があれば骨董屋を探し、物色する事も今回の楽しみの一つでもあった。一級品の掘り出しなどあるわけないが、見立てて使えるもの、日本には将来されていない珍しい初見のものなどはかなりあり、目的を持たずに尋ねれば楽しい思い出の品と出会えることがある。 そんなある古道具屋で、ゴルフボールより一回り大きい寸法の焼き物の玉を見つける。何だろうこれは?。中まで無垢でどっしりと重い。不明のまま手に入れて持ち帰る。単純に土を丸めたものでもない、二種類の色の土が墨流し紋様になった“練り上げ”であり、球状にしてからひと削りしてある。たぶん、なにか意図があって作られたものだと思う。それにしても窯の中でよく“はぜず”に無事焼けたものだ。 数年前、日本橋の古美術店で、宋時代の練り上げの碗を見せて頂いた折り、どの様にしてこの紋様ができるか尋ねられ、返答に窮した。専門ではないのだから仕方ないにしても、何となく面白くなく、頭の中でくる日もくる日も考え、また、実際に色々と試してみたが、なかなか解明できなかった。バームクーヘン、きんたろう飴、食事中にはマヨネーズとソースでまでも研究した。数か月後、ふとした思い付きで試したことがきっかけで解明できたのだが、こうなると楽しくてたまらない。いろいろと工夫をして幾つかの紋様が出来るようになり、小さな碗をかなり作った(作品は未発表)。その碗をひとつ作る度に出る余分な土は初めのうちは捨てていたが、(丸めて中間色の土とする)、せっかく苦労して作った二色、三色の土紋様を壊してしまうのはもったいなく、色が混ざらないように叩いて小さな土塊を作った。これも碗の数ぐらい出来るのだが、気にいった紋様の出ているものを焼いて金具を誂え、ペンダントとして親しい方へのプレゼント用とした。 ひょっとすると、この玉も昔の陶工が私と同じように“せっかくの土”を大切にして球の形を作り窯の隙間に入れて焼いたものではないだろうか。となると、私のやっていたことが昔の陶工と“同じ心境”であったこととなり、嬉しくなってきた。(祖父が口癖で“土”を大切にしない者は、よい作品を作れないと言っていたことを思い出す)。これが作品を作るときの心境も同じであったならもっと嬉しく、きっとよりましな作品が生まれるだろうが。 用途のほうは中国の方にも聞いてみたが判らず、今のところまだ判明していない。類品を見たという話しも聞いたことがない。どなたかご存じの方はいらっしゃいませんか。 墨流し紋様が細い、太いがほどよく混じり合い流れるようで、眺めているだけでも、どこか遠い宇宙の天体を見ているような気がする。何でもない玉だが私にとってはいろいろ想像でき、想いが膨らみ、はるか昔の中国の陶工からの声が聞こえるような気がしてくる。 5、約束 (陶説512 1995.11.1) 河北省邯鄲の街を出、澎城鎮の町に入ったところで、ご案内頂く馬忠理先生が当地考古学研究所へ打ち合わせに行かれる間に、暫く時間がありました。ちょうど、朝市があるとのことでバスを降り皆で歩き回る。懐かしいよい香りに引かれ焼き芋屋を見つける。ひとつ買い求め恐る恐る食べてみたら大変美味しい(日本を出て十日も経ったせいか)。次から次と窯の中のものをすべて我々が買ってしまった。側にまだ生のものがあったのでこれも焼いてくれと注文をしたが、窯がまた面白かった。日本だと“石焼芋”で、焼けた小石の中にいれて焼くのだが、こちらではドラム缶の形をした筒窯の内側に、輪上の棚が数段あり、そこに上から芋を置き、底に炭を入れて窯全体を熱して素焼きにするのだ。もう少し工夫をすれば焼き物の窯に使えるのではないだろうか(昨年の個展“風麗呼”の窯を思い出す。 注文した芋が焼けるまで、近所にあった現在焼いている磁州窯の作品がある店に入る。掻き落としの壷、人形、ほとんどが“写しもの”であったが、隅のほうに埃を被っている茶碗に使えそうな寸法の碗を見付ける。手に取ってみると、これはまさしく“李朝の無地刷毛目”を意識したものである。土も他に並んでいる作品よりも鉄分が多く別作である。高台内に“?造”と読める銘まで刻してある。口作りと高台がこちら風だが、驚いた。今回まわった北方の他の窯々では磁州窯風の物を沢山焼いていたが、本家の磁州窯では李朝風のものも今焼いているのだ。技法的には無地の磁州窯と李朝の無地刷毛目とはまったく同じだが、焼き物の世界は遠くて近いものだと思った。帰国後、毎朝一服飲んでいるが、二か月程度使って“しみ(雨漏り)”が少しずつ現れてきた。 注文した芋が焼けるころ戻り、これも全て頂いた。焼芋屋の夫婦はこれで今日の売り上げを消化したのであろう。満足そうな顔をしていた。隣の野菜の売り場で、清水久伸氏が“きゅうり”らしきものを買い求めた。これが今夜のご馳走となる。 夕食後、例によって一室に集まり話が咲く。そこへ、浅漬のキュウリが今日収穫した“磁州窯掻き落としの破片”を器として運ばれてきた。このような気の利いたお持て成しには感激した。キュウリの味も、塩のつかり具合いもよく、一瞬、中国にいることを皆忘れたのではなかろうか。否これも邯鄲の夢。そういえば、旅行中で最も嬉しくなる夢がもう一つある。最終日、上海の劉河道にある古道具屋でのこと、この地は道の両側に古道具屋が建ち並び、そのうえ、歩道と車道の間にも屋台の古道具屋が店を出し、要するに、四列状に店が並んでいるのである。自由時間を利用して全員散開するのだが、二時間ほどしかない。あわてて走り回ったせいか、ほとんど収穫はなく肩を落とし集合時間ぎりぎりにバスに戻る。一歩遅れて前席の小山氏が戻ってこられ、「気にならないか?」と声を掛けられ、私も「オリベ」と返すと、「そうだ」。早速一緒に出発間際のバスを飛び降り目指すその店へ向かう、途中その店のお爺さんとばったり出会い、戻ってもらい店を再度開けてもらう。“織部升鉢”もう夕闇で暗かったが、雰囲気はいい、値段も嬉しい、小山氏に先に取られてしまった!。まさか上海で“オリベ”を求めるとは想像もしなかったが、これも御縁か。その夜小山氏は御機嫌で奥様に御土産となる服を何枚も利用して、厳重に包み大切な手荷物となされた。“当たったら” 御馳走になる約束だが、未だにお誘いはない、いずれと待っている。きっと未だひとりで楽しんで、にやにやとほくそ笑んでいらっしゃるのだろう。何と羨ましいことか! 6、北京大学賽克勒考古興藝術博物館 (陶説513 1995.12.1) 定州より高速道路(北京―鄭州―上海)にて一路北京へ向いました。途中サービスエリアのようなものはほとんど無く、誰となくガイドさんに声を掛けバスを止めてもらうが、ほとんど全員がバスを下車し外の空気を胸一杯深呼吸する。高速道路を降り北京市内に入っても、さすが中国第一の都市、交通渋滞も重なってなかなかホテルに着かず、結局夕食のレストランへ直行することとなる。冷たいビールで今回の旅行目的達成の乾杯をすることとなったが、団長さんの挨拶の後、傾けたグラスのビールが一気に飲めなかった。何日もこれを心待ちにしていたはずが、お腹の方は生温かなビールに慣れて拒絶反応を示したのであろう。ほとんど全員の方が飲み干せなかった。喉と心ではこんなはずではなかったが。そこで紹興酒を注文し乾杯のやり直し、この紹興酒もメンバーにはうるさい方が多く、北京ダックに取り合わせる紹興酒を決め、宴会が始まるまでには少々の時間が掛かった。しかし、有意義な窯跡訪問の興奮のせいか、長旅の疲れなのか、早々に酔いも回りホテルに向う。 翌日、昨年の小山富士夫記念賞を受賞された北京大学の李伯謙先生を尋ね、北京大学賽克勒考古興藝術博物館(北京大学内西北部、一九九二年十月落成)を訪問する。 まず、目を見張ったことは、この博物館の内装設備の素晴らしさであった。残念ながら中国国内(特に地方ほど)の博物館、考古学研究所の施設は親切とはいえない。前回の中国訪問で経験し、懐中電灯、接写望遠鏡は持参したが、この二つ(特に強力懐中電灯は必需品)を持ってないと博物館訪問も半減してしまう。ところが、ここ北京大学賽克勒考古興藝博物館はこれをまったく不要とした。照明も素晴らしく、陳列台の高さも程よく、極めて最新の設計で建てられた博物館であり、その上、陳列品も全中国から集められた、最近発掘の珍しいものが沢山並んでいた。この中で驚いたのは、日本でも近頃、話題を呼んだ、山東龍山・黒陶高脚杯の形で、白い土で出来ているもの(口絵3参照)。卵殻ほど薄くは成形されて無いが、“大汶口の鬹”の土から砂気を除いたような土で出来ており、大変心を躍らされました。また、戦国、漢のもので彩色の極めて素晴らしい状態のものがいくつか在り驚きました。まだ日本では、この博物館の存在は多くの方に知られていませんが、故宮博物館とはちがった意味で、北京での日程には是非入れてほしい博物館のひとつだと思います。 李先生のご案内で館内を一巡した後、我々が日本の作陶家であることでもあり、北京大学で今作られている作品も是非見せたいとのことで拝見させて頂き、その作者(李民学氏)も交えひととき意見の交換を致しました。彼は青磁、鈞窯風のものを制作されており、文物商店にあるいわゆる御土産用とはちがい、本格的に作っていられました。だが、釉薬の研究が先行して、形、高台にはあまり神経を使っておられず、特に高台はほとんど心配り(日本人的)がありませんでした。作品に対しての感想を求められたので、このことを指摘致したところ、そのような高台は“技術が未熟で稚拙なもの”だとの一言、これには言葉を返すことが出来ませんでした。中国陶磁には、朝鮮、日本陶磁ほど高台、土味等は求めないのでしょうが、やはり、“目で見て””手に取って“”返して高台をながめる“という鑑賞態度は日本人だけのものなのでしょうか。中国陶磁の歴史を振り返ってみても時代が下がるにしたがって、その様なことよりも”より精巧“にという方向に流れているのだから、現代のものはこの様な形になるかも知れません。 私もバックに入っていた色見のぐい呑を見て頂き、所望されましたのでプレゼントとなり、その返礼に李民学氏の作品を頂戴致し、今後も“やきもの”を通じて意見を交換する約束をして参りました。私にとっては沢山の資料に囲まれて仕事をしている彼が羨ましく思いました。 7、潤磁村の窯 (陶説514 19961.1) 今回の北方の窯遺跡訪問も最後となったのは、定州・潤磁村の定窯でした。定州市招待所に宿泊し朝早くバスで出発し、市街地を出、山間部に入ると道は未舗装となり、すれちがうトラックにはコークスが満載され、こぼれんばかりでした。五十数年前、定窯の窯を発見された小山富士夫先生はこの道を何日もかかり馬車を使い進まれたとのことをお聞きしながら、途中、“思いがけない窯”(六月号小山岑一氏紹介)、焼石灰の窯を車中から見て、よくやく潤磁村に入りました。この村には現在、大きな火力発電所がありその横を抜け、めざす定窯々遺跡に着きましたがバスを降車する前にガイドさんから厳重な注意がありました。「万が一、靴の紐が解けても絶対に結び直さないでください」(しゃがんで遺跡を手にしていると誤解されてはいけないので)。それくらい厳しい条件でしたが、バスを降りて膨大な量の破片と窯道具(とちん)の山を見て驚きました。特に“リングとちん”がこんなにも沢山あるということは、それと同じ量の製品を焼いたこととなるわけで、そしてもっと感じたことは、その“リングとちん”が何段にも重なったままの状態で見られたものが数多くあることでした。この状態で残っていることは、窯が失敗であったということになるのです。なぜなら、窯出しをして“リングとちん”に乗せ重ねて焼かれた鉢を取り出すには、まずこの“リングとちん”をひとつ、ひとつはずさなくては、構造上不可能なのです。それをせずに重なったままの状態でこのように数多くあることは、窯の失敗がいかに多かったかを示していることとなり、その当時の窯を焼くことに対するご苦労が思い知らされました(へたって何枚も重なった鉢もみられました)。それにしても、重ね焼きすること事態、燃料の重要性を意味していますが、このように窯の失敗が沢山在っては、造っていた工人の気持ちを思うと、同じ造り手の立場である私達は、いたたまれぬ感がします。今なら、造り上げたものを窯の失敗を恐れ、数回に別れて焼くと思います。人間の手間よりも燃料がいかに大切であったかを示しており、現在とはまったく違う価値観であったのでしょう。 今回は、窯遺跡番号九、十、十一番を見せていただきましたが、刻文、印文のほか、遺品の極めて少ない黒定、柿定の破片も小さいものでしたが見ることができたことは大変嬉しかったです。ここも現在、破片の山の側は畑となっており畦にも沢山の破片を見ることができました。 定州市・定窯博物館では、近年発表された“静志寺”“浄衆院”発掘のものを数点見せていただきました。館内が暗く、自然光の下でと御無理をお願いし適えてくださり、“浄瓶”“長頚瓶”“官”の刻文のある碗等いくつか拝見しましたが、今まで目にしてきた定窯とは異なっており、これが初期のものなのか……、いずれ研究なさられると思いますが、技法的にも典型的タイプとは異なっておりました。 今晩は北京、大切に十日間持ち歩いた“するめ”を夕食の時、レストランの厨房に入れて頂き、真っ赤に焼けたコークスの竈の火で炙らせてもらいました。大勢のコックさんが珍しそうに集まってきたので、一枚を差し上げ裂いて食べることを示しこちらが食べたら、恐る恐る口に運んでくれ、にやにやと笑ってくれましたが、美味しかったかどうかは言葉が通じず分かりませんでした。我々のテーブルではすっかり慣れてしまった“冷えてないビール”のつまみとなりました。 七回にわたり、拙文を書かせて頂きましたが、大変有意義で収穫も沢山あり楽しい旅行でした。この紙面を借りて、企画いただきた林敬博氏、中国国際旅行社で中国陶磁通の宋小凡氏、並びに、ご一緒させて頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。 |
(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1995) |