
| 「おい、しのぶ」と呼んでくださる方が、もうおられなくなってしまった。偲えば、まだ二十歳前のこと、鎌倉のお茶の先生の元に入門して間もなしに、先生のお供で、新宿区中町の是信庵様御水屋にお伺いし、是信庵様こと梅沢信二先生にお会いさせて頂いたのが初めてでありました。以来、三十年近く、「おい、しのぶ」と呼ばれていた。私は「社長」と呼ばせて頂いていたが、本業であられた『医事新報社』のお仕事とは無縁であった。
初めて伺った御水屋は、連日の御茶事が続いた何日か目で、席主であられる社長と奥様のほか、怖そうな家元、うるさそうな長老のお茶道具屋さんが座っておられ、お出入りの道具屋さんまでは畳の部屋に上がっておられた。それに若い番頭さん達が四、五人、お庭の方、料理方が三人程いらした。どうして五人程のお客様に、こんなに裏方が詰めているのか不思議であった。私はいい道具を見せて頂けるからと先生に付いていったのだが、懐石が始まり順次料理が運ばれていった。すると、社長が席主の分を私に下さった。頂く立場でないとご辞退したが、「毎日食べているから飽きている、初めて来たから食べろ」とビールまで勧められ頂いてしまった。そういえば社長はいつも小ビンのラガービールを好んでいらした。茶事が終り御道具をしまわれるとき、ゆっくりと拝見させて頂く事が出来た。その頃、お住まいの茶の間のほうから賑やかな声がきこえてくる。名残惜しまれる今日のお客様方に加え、社長の極親しい方が遊びに訪ねて来られ美術談義に声が弾んでいた。私はおいとまの御挨拶と思うと「ゆっくりしていけ」と茶の間の隅に通されお話を聞かせて頂いた。そんな折りも、お客様と同じ様なおつまみとお酒を用意して下さっていた。堅苦しさはあったが、いいものを見せて頂きその上美味しいものを食べて飲ませて戴く嬉しさと、次第に厚かましさも加わり、以後、社長のお茶事の折には心はずみ何度となくお伺いさせて頂いた。そういえば、社長のお道具組には必ず観賞陶器を加えておられた。それも、宋、明初、清朝の官窯である厳しいものであった。お茶の世界に官窯ものを取り入れられたのは社長が初めてではないかと思っている。中国陶磁に憧れている私にとっては引き締まるような感じで、嬉しく拝見させて頂いた。
親しくさせて頂くうちに、こちらからコレクションの拝見をお願いしたことも何度あった。神田駿河台にある梅沢記念館にお伺いして、蔵から出して頂き、暫くお話をしながら拝見していると、「ゆっくり見たいんだろう」と座を外してくださるお心遣いを頂くこともあった。昼時になると、近くのお蕎麦屋さんに誘われ、午後また、予定外のものを出して下され時の経つのを忘れて拝見するうち、夕刻、「喉が乾いたろう」と社長行きつけのホテルのバーへお供する。まず、そのホテルの玄関でドアマンが「お帰りなさい」と社長にご挨拶する。初めはびっくりしたが毎日のコースであったのだ。バーでは顔なじみのご友人が沢山おられ、喉の乾きも治まったと思ったら「腹減ったろう」と隣のレストランに席を変えステーキの特大サイズを注文して下され満腹にさせて頂いた。
甘えたことばかり思い出しておりましたが、社長が日本工芸会東京支部長に請われて就任された直後、鎌倉山のご別荘に、高松宮殿下をお迎えられ、工芸会の会員の方々と懇親する会を催されました。親しくさせて頂いたこともあり、前日よりお伺いし夕食をご馳走になった後、若い仲間数人で外に出て呑んで夜遅く別荘に戻ったとき、社長がひとり待っておられました。一喝「そこに座れ……」当夜一緒に泊まる先輩方に寝具の用意を煩わせてしまったのでした。“もの”を見るときも、お酒の席も凄く寛大にして下さっているようでも、わきまえることを外したり、秩序を違えることには大変厳しく怖い社長でもあられました。
是信庵様でお目にかかっていた若かった番頭さん達も独立しお店を構え、また、私と同じような立場で集まっていた作家の方達とも、同世代であったためか自然と親しくなり、数年前より年一回自慢のぐい呑を持参し一泊する会が出来、この春で、幹事が一廻りしたところでした。社長にはこのことお話しすることは出来ませんでしたが…。お通夜の夜また仲間と遅くまで呑んで語り合いました。 合掌
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(陶説537号 1997.12.1) |