
| 1、ひそく (陶説546号 1998.3.1) 平安の昔から伝わる、この「ひそく」という言葉から響く感覚は、位も高く、雅びで静かな佇まいを与えてくれる。「なんという美しい湖だ、山静にして太古の如く、……」で始まる、米内山康夫氏著「支那風土記」の中の『上林湖』は、まさに「ひそく」の生まれた地に、ぴったりの名文に思えてならなかった。その憧れている「上林湖」を訪ねないかと誘われたのが、個展(平成九年「白玉尖」)直前の夏であった。是非とも思い、日程を個展後に合わせて頂いた。そもそも今回の旅行を企画して下さったのは、「たましん歴史・美術館」副館長の中澤富士雄氏であり、その親しい友人である「浦上蒼穹堂」主人の浦上満氏であった。こういう形の組み合わせで『もの』を見ることは、大変厳しく、勉強になる。また、楽しみもある。「学識研究者」と「古美術を商う方」それに「物作り手」。同じ「もの」を見ても、『美』を解かそうとする気持ちは同じでありながら、微妙に違う角度から視るために、会話の中で参考になることが沢山ある。これはお互いにそう思っているはずだ。これに「コレクター」が加わればもっといいのかも。そういうわけで、この三人の旅となった(途中、中澤氏の窯跡視察を取材する出版社の編集長が加わったが)。そして、自由な行動をしたい目的もあり、現地では通訳と車のみの手配とした。そのためには前もっての資料集めには大変な苦労があったが、すべて中澤氏に煩わせてしまった。その資料と下調べのお陰で大変貴重な体験をすることが出来たのだが、その前にもうひとつ、今回のたびの大きな山がある。 中国入国後直ちに、新装なった「上海博物館」を訪ねた。入ってびっくり、高級ホテルを思わす四階まで吹き抜けのロビー、その各階四面に展示室がある豪勢な内装であった(展示物については先の陶説第五二五号で弓場氏が紹介済み)。副館長の汪慶正氏不在のため、陶瓷研究部の周麗麗女史が面会してくだされ、『清涼寺・汝官窯発見』の経緯と成果についてお話を伺う。その上、貴重な収集資料も手に取らせて戴く光栄を得ることができた。また、数日後杭州より戻ったおり、汪慶王副館長様のお招きで昼食をもご馳走になった。それは、中澤氏の日夜の研究成果をお認めになっている証であり、お心配りに感謝するとともに、私共はお陰で大変なおこぼれを頂戴できたことは、中澤氏にお礼を述べなくてはいけない。先年、鄭州市「河南省文物考古研究所」で見せて頂いた『清涼寺・汝官窯』資料と合わせ、発表報告されている資料は見たことになるが、『汝官窯窯跡』の研究はもっともっと本格的な調査を期待したい。ともあれ、中国陶磁それも宋時代の青磁に憧れる私にとっては、第一日目にこんな貴重な体験ができたことはこの上なく嬉しく、これからの旅の期待に胸膨らみ、杭州への車中の人となりました。 ノンストップで二時間半、杭州駅改修工事中のため東杭州駅で下車。西湖の北湖畔にあるシャングリラホテルへ、チェックイン後、当然ながら真っ直ぐに郊外の八卦田にある「南宋官窯博物館」へ伺うが、期待が大き過ぎたせいもあったのか、これといった展示物もなくがっかりする。窯跡も拝見させて頂くが我々にはあまり参考にらなかった。その代わり、孤山にある「浙江省博物館」には『古越磁』『越州窯』『南宋官窯』の初見の優品がかなり沢山あり、閉館時間と過ぎても熱心に視ている我々三人に呆れたのか一時間近くオーバーしても、監視のおばさんに文句ひとついわれず、かえってこちらが恐縮しお礼を述べて退館する。そんなおりも、にこにこしながらのお顔が印象的でこちらも嬉しかった。 夕食は今回唯一予約を入れた西湖々畔「楼外楼」にてガイドさんも誘い、『乞食鳥』『むきエビ』『スッポン』『草魚』等で観光客らしく夕げを済ませ、心は明日の期待とほろ酔いかげんで、柳がそよぐ湖畔の風が気持ちよく、プラタナスの枯れ葉舞う遊歩道を抜け、シャングリラホテルへ。(この旧館は是非お勧めします) 朝起きると「西湖」は霧の湖であった。早々に朝食を済ませ、めざすは「上林湖」へ。濃霧のため高速道路は閉鎖、交通渋滞の一般道路を暴走族なみの運転で走り抜け、途中、「紹興」手前で霧も晴れ高速道路に乗り「余姚」で降り、稲作発祥の地とされる『河母渡遺跡』へ立ち寄り「慈渓」に入る。昼食時間を無駄にしたくなく、まず市内でスーパーマーケットを探し、パンと牛乳を買い込みリュックに詰め、「上林湖」を目指すが、現地の人に尋ねても、尋ねても知っている人がいない。ようやく、輪タクのおじさんが教えてくれるがこんな道でいいのか、車一台がやっと通る人家の間を抜け、山間を回りようやく湖らしき堤を発見。登ってみてびっくり、ここまで来れば三人で窯跡を探す計画であったのだ。ところが、上野の「不忍の池」位のつもりでいた湖は、幅は狭いが見渡すところ、湖畔を一周するだけでも数日を要す大きな湖であった。どうしよう……、途方にくれる我々の目の前の湖畔に木造の小さな舟が係留されているではないか、船頭らしきおばちゃん達が退屈そうにしていた。試しにそのおばちゃん達に破片の写真を見せ、こういう所を知っているかと尋ねると、一人が案内してよいと返事をくれる。舟賃の交渉をして半日貸し切る形でエンジンを掛けるが、これがなかなかで何回めかの挑戦でようやく船出となる。舟底を見ると水が滲みている、無事帰れるのか不安であったがリュックには食料が沢山詰めてあるし(こういう時食べ物は勇気を与えてくれる)、豊かな気持ちになりのんびりと「上林湖」を湖中より眺める。この松の林に囲まれた静かな湖の佇まいは、米内山康夫氏の名文に譲り(是非読んでください)、湖中には我々の舟だけで、この憧れの湖を独占したような気持ちに浸っている嬉しさは感慨無量であった。船は幅狭い湖の北の端より舟出し、南の奥に着け下船すると、岸には破片が沢山散らばっていた。夢中で指さしながら、これは!あれは!と興奮していると、おばちゃんがこんな所より松林の奥にと案内される。ここより米内山氏とは少し異なってくる、青磁の破片が大量に散らばっているところは同じだが、土匪もいなかったし物売りもこなかった。運も良かったのか、はっきりとした窯跡をも発見した。まず第一に破片の量と共にサヤや窯道具が異常に沢山転がっている、これは絶対窯跡と直感した。注意深く眺めると大きな木が数メートル幅で生えてない斜面があった。その辺りの枯れ草を取り土を除いてみると、焼け焦げた窯の内壁が見付かった。その延長を辿ってみると、何箇所にも焼け焦げた内壁があり窯床らしき所も有った。およそ幅三メートル、長さは十メートル以上あった。後刻、中澤氏より詳しい報告がなされると思うが、三人の通称名『NC三・四窯』(今回の中国旅行番号に因み)と命名した。この窯跡の破片はほとんど素紋の碗であり、いわゆる玉壁高台で、低く幅の広い高台から直線的に立ち上がる浅い朝顔形の碗であった。釉調のきれいな破片は『ひそく』を思い浮かべるオリーブグリーンから青に近く澄みきった発色をしていた。たぶん、晩唐の窯跡ではないかと三人で想像した。サヤは「M」の字型で、サヤに品物を入れてから摘むのではなく、品物をのせてサヤを被せ、その上に叉、品物をのせてサヤを被せる形態であった。昼食を採るのも、煙草を吸うのも忘れ、破片を見て、カメラのシャッターを押していました。初めはそばにいたおばちゃんも呆れてどこかに行ってしまったが、暫くして迎えにきてくれた。中澤氏が湖の対岸にもこの様な所が在るだろうと尋ねると、我々の熱心さに打たれたのか、もっと沢山有る所があると湖の対岸に連れて行ってもらいました。見るとそこは、舟の着いた水際から木が生えている所まで幅約十メートル、すべて破片とサヤ、砂や石はまったく見えない。足の踏み場もなく、結局破片を恐る恐る割って歩く状態であった。それも、右も左も見渡すかぎりである、物凄い量である。贅沢になり、気持ちも落ち着いてきたのか、数少ないが文様のあるもの、爪型の水注、水注の注ぎ口や手、合子、盤口壷の口辺など見ることができた。時を忘れていると、船頭のおばちゃんと先程から同舟した箒売りのおじさんがしきりに大声で叫んで、手招きをしている。たぶん、夕刻になり風が出てきたので戻れと言っているんだろうが、ここは言葉が通じないことに託つけ無視すること一時間。陽も傾きさざ波も出てきたこともあり、諦めて舟に戻った。半日ひたすら下を視続けた顔を上げ、松の林にひっそりと佇み暮れゆく「上林湖」の夕景を惜しみながら、この感慨に耽っていると、急にリュッサックの中のパンを思いだしパクつく。こんなにパンが甘く感じたことは始めてだった。親切にして頂いたおばちゃんとの別れ際、残ったこのパンを差し出すと、堅く辞退され失礼なことをしたかと後悔しながらも、我々は腹一杯と身振りで示すと受け取ってくださった。堤を登り振り返ると、おばちゃんの仲間数人集まり美味しそうに食べていた。「やはり本当は……しかし……」こんな田舎の船頭さんにも中国民族の気概を痛感させられました。我々は体が冷えきって、慈渓市内に入り、暖かい飲み物でひとごこち、真っ暗になったデコボコ高速道路を飛ばし、杭州のホテルに夜遅く着き、美味しい「紹興酒」で乾杯・乾杯、また、乾杯! 2.正しかった「机上の工程」(陶説541号 1998.4.1) 自分の常識でしか考えられず、疑っていた過去の文献、作陶の経験のない人達の見てきた報告を「机上の工程」と決め付けてきたが、それは、現実のものであった。 「上林湖」での期待以上の成果を胸におさめ、次なる目的地「景徳鎮」に向かうため上海にもどる。予定の飛行機が欠航、夜汽車で15時間の旅となった。まだ真っ暗な夜明け前に降り立った景徳鎮駅は、小雨がけむる中、中国独特の人、人、人でごった返していた。ホテルでシャワーを浴び、朝食を済ませ、早々にまずはこの地に来て、『昌江河畔に立つ』をどうしてもやってみたかった。 あの有名な浮橋は、今年の台風で流されてしまって残念ながらみることは出来ず、河原でその名残を惜しんでいると、朝早くからこんなところに立っている珍しい三人の周りを、大勢の人達が囲んできてしまった。少々怖くなり、そこを離れ、珠山大橋から昌江大橋までの西側およそ二キロメートルほどの沿江西路を散歩することにする。 しとしとと降る小雨の中、左手にゆったりと流れる「昌江」を眺めながら歩いていると、河原では川底をさらって砂を採取している。そして、大きな砂利と小さな砂に分けているではないか。一目散に走って河原に下り、捨てられた大きな砂利の山に向かう。『きっとその中には!……』地表面には見られない、昔々に川底に埋まった破片が混じっていると三人は思ったのだった。「あった、あった」砂利に混じって破片、トチン、ハマがいくつも、しかし、どう贔屓目に見ても、明末位の「染付」の破片しか見あたらなかった。見当は間違ってなかったが期待ははずれ、肩を落とし堤を登り歩道に出て下を見ると、その舗装をした地面にはあの破片やトチンがいたる所にはまっていた。さっきの砂採取場の砂は舗装に用いられるのであった。 町全体の雰囲気を見たく、市内中心部に位置する「龍珠閣」に登り市内を一望する。いたるところに煙突があり小雨の中、煙がけむっていた。いくつもあった国営の瓷廠はほとんどが倒産し、そこにいた職人さん達の中には、腕のいい人は個人の経営者になっているそうで、たくさんある煙突はほとんどがその工場である。時代の流れを感じざるをえなかった(この閣の2、3階には沢山の景徳鎮で発掘された展示物があった)。そんなことよりも第一の目的でもある、先年、日本でも、開催された「皇帝の磁器」展(平成7年)で有名になった『品陶斎』を尋ね、修復なった『永楽』『宣徳』『成化』の染付、赤絵等を拝見する。中でも、『成化』で緑釉の水注と碗は大変珍しく初見であった。一点、一点ケースから出して下され、中澤氏はメモを取ることしきりであった。 夕刻、焼き物の自由市場に入り一回りするが、ここに並んでいるものは先ほどの個人経営の作品だそうだ。ほとんど倣古のもので、銘まで写している。日本でいうような個性を優先する作品は皆無であった。 窯跡の方は、市街東方の「寺前」「南市街」「柳家湾」「黄泥頭」、湖田にある「葫芦窯」「馬蹄窯」、「楊梅亭窯」等に案内して頂くが、遺物で見る限りほとんどが青白磁の窯であった。そんな中、ちょうど道路工事現場になっている横の破片の山に登らせて頂くが、そこの破片は他の窯に比べ発色がよく青の色が綺麗なものが沢山あった。そして、伏せ焼用のトチンが共土でもあった。今回見て回った窯跡に残るトチンは見る限り全てサヤ土に近いもので出来ていたが、ここの窯は共土で出来ている。これはまさに上手の窯である。 この湖田には今も伝統的に作っているところが幾つもあった。たぶん、個人経営の人達だろうが、そんな路地の中に、作品がほしてある一軒に足を踏み入れさせてもらう。『あッ、これは』昔、文献で読んだことのある工程ではないか、自分でも疑ったが、目の前の現実はどうしようもないことだ。これは、ヤキモノを作る工程上のことだが、まずロクロで成形する。半乾きのとき外側を削るのだが高台の中心部分を棒状に高く柱のごとく残しておく(これがびっくりすることである)。この状態のままで内側の絵付けをし、内側の釉掛を済ます(まだこの柱はそのまま)。そして外側の絵付けをし、その後、この柱を削り取り外側の釉掛となる。私は(日本では)削りのときに全て素地は完成させてしまい、それから、絵付け、釉掛とするのが当たり前と思っていた。第一その柱を削るとき内側に掛けた釉薬がすれて剥げてしまう恐れがあるし、乾燥しきった土は硬くて、削れない。ところがどっこい、中国では、絵付けの時はしっかりつかめるし、内側の釉掛の時もこの柱を持てば楽に施釉が出来るということだそうだ。日本式だとふたりがかりでするか、特殊な道具を必要とする。成る程と思ったが、カンナも珍しい形をしていたし、この柱を削るところをお願いしやってもらった。流石、うまく削っている、それに土の性質も乾燥しきっても削れる土なのだ。過去の文献や、このことを見てお話くださった方々を疑って信用せず、それは作陶経験のない方の『机上の工程』と思っていた。今迄の、自分のかたくなな性格を反省した。その後,幾つかの作業場を拝見するが同じ工程であった。ただ、日本式でやっているところもあった。焼き上がった状態ではまったく判断がつかないことが、実際その作業工程を拝見し確認ができたことは大変勉強になりました。 湖田での昼食は観光客の入るような所はまったくなく、町の小さな飯屋の軒の下で組み立て式テーブルを歩道に持ち出し、肉入り焼きそばを目の前のコークスコンロで、おばちゃんに手際よく作ってもらい、ピータン、ビールはラーメン用の丼にレンゲで掬って呑むように進められるが美味しくなく、丼からガブ呑みする。これが『景徳鎮スタイル!』?? 食事のことで今ひとつ、まだまだ、予定の計画がある中澤氏を残し、我々二人は数日滞在した景徳鎮から帰路となるが、やはり、飛行機が欠航で又、夜汽車となった。それも今度は18時間、何故来るときよりも3時間も余計にかかるのだ。尋ねると、停車駅が多いとのこと。そういえば、こちらの各駅の停車時間はたっぷりある、15分から長いところでは30分以上ある。中国の方が日本に来て、新幹線に乗ろうとして、余りに短い停車時間に乗りそこないそうになったり、またスーツケースなど持っていたら降りることも出来ないといっていた。成る程と思う。ともあれ18時間掛かる、だが、たまたま幸運なことに、4人用のコンパートメントを二人で占有することが出来た。しかし、食事は二度取らねばならない、往路の時、食堂車の印象が悪かった(メニューの全てを注文したが美味しくなかった)そのことを、景徳鎮でお世話になったガイドに相談すると、それなら夕食と朝食を特別注文してあげると、乗車時に車掌さんへメモを渡し注文してくれた。発車後暫くして車掌さんが来て、そのメモの横に数字を書いて持ってきた。見ると、少々どころかかなり高い、でも、値切ることに慣れてきた我々も、ここは格好をつけて承諾する。すると、ここへ持ってきてやるとルームサービスを手振りで示してくれた。さすが『お金の力』と思っていたら、夕食の時間になると、白衣の食堂のおばちゃんが特別注文の料理を運んでくれ、後ろにはあの車掌さんがビールを二本とコップを持ってやってきた。コップを受け取ったが狭いコンパートメントの机のこと、置くところに困っていると、車掌さんが腰をかがめて、どうぞ(言ったかどうか?)、こちらも無意識にコップを彼の前へ、お酌させてしまった。浦上氏も、負けじと彼の前へコップを!こんな気分のいいことは。しかし、車掌さんもここにいては勤務外の何をさせられるか不安になったのか、一杯ずつで早々に退散してしまった。でも、この車掌さんは格別の制服を着ていたし、各車両の車掌ではなく、きっとこの列車の一番偉い車掌さんだったようだ。景徳鎮のガイドさんがどのように我々二人を説明したかは、未だ知る由もないが、「日本の大金持ち」とでも、紹介したのか?(それにしては身なりが汚いが)こんなお持て成しに嬉しくなり、食事も美味しく、二本のビールはあっという間に空となった。旅の間、大切にとっておいたウイスキーをも取り出し、これも全て呑んでしまった。ここちよい酔いで横になり、車内音楽に目を覚ますと外はもう明るくなっており、朝食が運ばれた。もうあの車掌さんとは会うことは出来なかったが、18時間という長い時間を退屈せずに過ごさせてくださった。謝謝。 再見。 |
(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1998) |