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外焔
1. 黒胎青磁(陶説546号 1998.9.1)

先年、中国北方の窯址を視察した仲間達と今回は、淅江省、福建省にある窯址を尋ねることとなった。 龍泉の安福窯、大窯、渓口窯。浦城の半路窯、大口窯。水吉(建窯)の芦花坪窯、大路后門窯。平和の田坑窯、大龍窯。同安の汀渓窯。それに各地博物館を見学させて頂いた。 今回の出国はまったくスムーズで、上海経由、温州に着くが、前日に降ったという季節はずれの名残り雪に出迎えられた。甌江東河畔に沿ってバスにて麗水に向かうが、どこまでも続くメタセコイアの並木を抜け、畑には黄色い菜の花が満開であった。山岳部に入って両側の断崖には幾筋もの滝があり、雪解けで増水し、泡立って落ちる白い流れは山肌とのコントラストが印象的で目に鮮やかに入ってきた。麗水市内に入る手前開けた平野を望むところより、桃の花が咲きみだれ、まさに麗水は桃源の里のように思われた。 市内の南明賓館のレストランで昼食を頂くが、ここの料理は、まさに日本人の味覚にぴったりであった。塩味の加減、盛り付け具合には皆驚き、喜びを伝えると、料理長自ら挨拶に来られ、日本には来たことのない女性であった。どうしてこんなに我々の感覚と同じなのかと尋ねると、「心を込めてお持てなしをする」とご返事を頂く。 日本人的中華料理と別れ、バスは左折し甌江を渡りめざすは『龍泉』へ、今度は甌江を右に見て、またまた芽吹はじめたメタセコイアの並木を抜け、『云和』を過ぎるころから山岳道となる。峠を超え『安仁』へ入る、ここには明時代、成化年間に造られたという立派な屋根が付いた木造の橋(永和橋)を見学し『安福口』へ。バスを降り甌江支流に沿って歩くこと二十分程、今回最初の窯址である『淅江龍泉県ー安福龍泉窯址』へ到着する。ここの遺物は見た限りでは、元、明のもので日本で云う天龍寺青磁タイプで碗、高足碗が沢山のサヤなどの窯道具と共に見られた。もう一つ大きな峠を越えるとようやく龍泉市内にたどり着いた。 翌日、市内より三十キロ程南下し『大梅口』を左折して、水牛の糞と ぬかるんだ土の混ざった泥んこ道を一時間程走り、車を降り徒歩で山を越えること三十分、ようやく、めざす『大窯』窯址へ。ここは大きな盆地で斜面はいたるところ「ものはら」であった。北宋とされる刻花のものから、たっぷりときれいな青磁釉が厚く掛かった香炉、双魚の皿、鉢など砧青磁タイプのものが沢山見られた。さすが「龍泉窯」屈指の窯址であった。  帰路、今回予定にはなかった『渓口窯』窯址をどうしても尋ねたく、無理をお願いした。まだ本格的な調査が済んでいないとのことで時間を制約されたが、思っていた通り(先年発掘報告があった)、数は少ないが官窯タイプ破片を数点見ることが出来た(砧青磁タイプの破片がほとんどだったが)。 薄手の皿、鉢で作りの極めて上手なものであったし。また、黒土で開片の入ったものは、杭州で最近見られる破片と極めて似ている。近年、鳳凰山山下で発見されたという『修内司官窯窯址』と合わせ、南宋官窯の問題はこれからも話題を呼ぶだろうし、研究が進むことを期待したい。龍泉市内に戻り龍泉青磁博物館を見学するが、『渓口窯窯址標本』の中には極めて高台の畳付きが薄いシャープな薄手の皿、香炉(?)などの黒胎の破片が沢山陳列されていた。 この龍泉市内でも個人の作家が何人かいるとのことで、一軒尋ねるが開片の二色入ったいわゆる「金糸鉄線」の哥窯タイプを狙っていらしたが、素地は厚く厳しさに欠けるものであった。また、市内のほかの店で見るものもほとんどがこのようなもので、近年、上海などで見るかなりうまくできた砧青磁の彷古のものはこの地ではなさそうである(一説によると『景徳鎮』産)。又、南宋官窯タイプの彷古のものは『蕭山』産であるとのこと。びっくりしたことに、この作業場には日本の著名な作家の「印」が押された作品が沢山あり、陶印までも見てしまった。交流の深さには驚いたが、いずれ日本でもこの作品を見る機会があるであろう。

2. 残留『建窯茶碗』の里帰り(陶説547号 1998.10.1)

  青磁の都である「龍泉」に別れを告げ、福建省への山越えである。 数日前に降った雨で危うく通行止めになるところであったが、「王坊」「八都」そして省境の「花橋」を無事越え福建省へ入る。 浦城市内手前を南下し『半路窯』へ、ここは珠光青磁タイプの猫掻き文様がある碗、黒釉のものが見られた。その数キロ北方にある青白磁で名高い『大口窯』を尋ねるが、ここも斜面全体「ものはら」であった。青白磁の経筒、水注、鉢、印花の合子、蓋物の破片が沢山あり、黒釉の小壷などの破片も見られた。その昔、この印花の合子や小さな蓋物は『景徳鎮』産の影青と思っていたが、この地ものである。また、伏焼きの青白磁の鉢は『景徳鎮』と同じ「リングとちん」を用い、窯詰めの方法も全く同様であった。よく考えて見れば『景徳鎮』とは省こそ異なるが距離的にはかなり近いところなのだ。 翌日、「水吉」に入り天目の里である『建窯』窯址へたどり着く、今回は『芦花坪窯』と『大路后門窯』の二箇所たっぷりと時間を頂き見学することが出来た。ここはものすごい量の「ものはら」で、山全体が茶碗の破片と窯道具のサヤ、ハマで出来ているようであったが、この地よりあの美しい『曜 変天目』『油滴天目』がはるばる海を越えてきたかと感慨に耽りながらも、ほとんどが『兎亳盞』であった。高台内に『供御』『王』の刻字があるもの、又その刻字がハマに写っているものがいくつか見ることが出来た。茶碗ひとつひとつが入るサヤにも力強いロクロ目がたったものがあり、ひっくり返してしばらく眺めていたが、そばにいた同行の林氏はこの「ものはら」の上にどっしりと胡座をかき『天目茶碗』にブランディーをそそぎ美味しそうに飲んでいた。羨ましくなりとなりに座り一杯ご馳走になったが、全く無疵の茶碗である。こんな完品私は見なかったと尋ねると、先年日本で手に入れた『建窯』産の茶碗で今回生まれ故郷の「ふるさとの大地」へ数百年ぶりの里帰りの為にこの茶碗を持ってきたとおっしゃった。心がけが違い偉いなアと敬服していたが、バスに戻ってもまだ大切に抱えていた、やっぱり惜しくなったのか?。いい裂で仕立てた仕服に包み持ち帰っていた。彼曰く、「たっぷりと窯跡にブランディーを飲んでもらいお礼をし、お別れを告げ、これからも大切に可愛がる」とのこと、成程! 建陽市内に入り『建陽市博物館』を訪問する。中国では天目茶碗の中で『鷓鴣斑』のものが一番珍重されているとのことで自慢に解説されるが、日本人感覚ではあまり魅力のあるものには思えなかった。又、最近日本にも沢山持ち込まれている、上から見ただけでは本歌と見間違いそうな『建窯』の彷古のものは「南平」産とのことであった。 この地と別れ、今回唯一の観光である「武夷山」へ足を延ばし、一日ゆっくり船下りや香高い烏龍茶を飲んで、ひと休みとなった。

3.武夷山 九曲渓 二曲 玉女出浴「玉女峰」(陶説548号1998.11.1)

のんびりとゆったりとした流れに身をまかせ、奇石、美石を眺めながらの『武夷山 九曲渓 筏下り』は、「龍泉窯」「建窯」の興奮を冷まし、疲れを癒してくれた一日であった。  空路、厦門へ、気温は30度を越え真夏のような陽射しにたまりかね、今回持ち合わせてこなかった半袖シャツを購入し着替える。フエリーで対岸の島「鼓波嶼」へ渡るが、沈む夕陽が印象的で町の佇まい何故か「香港」を思い起こさせた。夕食は今回の目玉である『カブトガニ』、日本では絶対に食することの出来ないものである、甲羅の直径40センチ位もある大きなものがテーブルに運ばれた時には目を見張った。ひっくり返して身を取り出すが、大きさの割に食べるところはほんの少し、味のほうは期待が大き過ぎたのか...........。唯、甲羅はメンバーのひとりが干して仮面にするとのことで記念に頂くが、うまく持ち返ったかどうかは不明である。この「厦門」市内にも「香港」に倣っているのか、古道具屋がいくつもあり、ホテル近くには沢山の店が入ったビルがあった。「青磁」「天目」「白磁」「染付」は当然ながら、北方の「耀州窯」「定窯」「磁州窯」それに近年日本にも将来されている四川省の「黒陶」までも見られ、流通の広さには驚いた。  翌日、「漳州」「靖城」「南靖」を抜け「平和県」へ、『平和県博物館』を尋ね近年話題を呼んでいる『素三彩(日本でいう「交趾」)』『彩絵瓷(呉須赤絵)』の資料を拝見する。「鴨」「阿古陀」「亀」「蕗のとう」まさに、『型物交趾香合』であり、上絵の施してない素地、そして「型(土型)」までも何点か見ることが出来た。この交趾香合の窯趾である『田坑窯』は、「南勝」より歩くこと1時間ほど、山のふところの渓流の上にあり、全員汗だくの行軍であった。今は埋め戻してあり畑になっていたが、畦には小さな破片が沢山見ることが出来た。『型物交趾香合』以外にも『素三彩』の皿の素地には大変作の良い刻文があり、「景徳鎮」明時代中期の『素三彩』(黄地緑彩タイプ)にかなり近い作行のものである。彩色が施された 小さな破片には「紫」「黄」「緑」「トルコブルー」の顔料が見られた。又、大変珍しい破片だが『素三彩』の素地が刻文ではなく「呉須」らしき顔料(黒色)で花鳥図を描き「釉薬」を掛けずに焼成したものがひとつ見られた。先年、『皇帝の磁器』展(1995年)に出品されたトルコブルーの掛かった龍文の大きな合子の破片(出品番号188、189、190)タイプの半製品ではないかと皆で話題となったが、平和県博物館 高館長も初見とのことで不思議がっておられたが、この上に交趾の上釉(トルコブルー)を掛ければまさにあの大きな合子と技法的には全く同じである。  『呉須赤絵』の窯趾である『五賽窯』では、『大龍窯』『二龍窯』を尋ねたが、ここも山の斜面全体が破片と窯道具で一杯で大きな窯壁も見られた。 所謂、日本で云う『呉須赤絵』の素地で「玉取獅子」以外にも「福」「寿」「魁」「正」の 「呉須」で書いた字がある破片がいくつも見られ、『タンパン呉須』で有名な「赤壁の賦」の染付版の大きな破片も見ることが出来た。唯、残念なことに上絵の入っているものはこの二つの窯では全く見当たらず 『呉須赤絵』の素地を焼く窯であったようだ。後刻知るのだが、上絵の入っているものが発見されているところはすぐとなりの窯『花仔楼窯』『碗窯山窯』とのことであった。  この平和県に在る『交趾窯趾』と『呉須赤絵窯趾』は距離にすると10キロ程しか離れておらず驚いた。又、交趾香合と全く同じ形で白磁、染付のものがあるが(台牛、柘榴)日本の茶人は『呉須香合』と呼んでいる。以前から同地域からの産物ではないかと云われてきたがこのことが立証された。  厦門に戻り、翌日は同安の『汀渓窯』へ、ここは現在ダムが出来てほとんど水没しているとの情報であったが、運のいいことに雨不足で水がほとんど引いており、湖畔にはおびただしい量の青磁の破片と窯道具があり、ほんの少し白磁も見られた。青磁はいわゆる『珠光青磁』で内外に猫掻きのような刻文があるタイプであった。唯、寸法的には茶碗より一回り大きいものが殆どであった。  昨秋「越州窯」の上林湖(堤が出来て昔より何倍も大きくなっている)を尋ねたときも水が引いていた。この春、再度尋ねた友人は満杯の上林湖にがっかりしたそうだ。運、不運はつきものだが窯趾視察の折りは渇水期を狙うことをお勧めします。それと、草の繁る前であることも当然です。 ところで、淅江省、福建省の窯趾(上林湖の越州窯、龍泉窯、大口窯、建窯、汀渓窯など)のほとんどが山の斜面のかなり高いところにある。当然ながら作陶する作業場は水の便の良いところにあるはずである、窯詰めの時は運ぶだけでもご苦労を察する。それに反し、北方の窯趾(耀州窯、臨汝窯、釣窯、磁州窯、定窯)は平地にあった。『景徳鎮』は中間的である。これは窯の構造(斜面を利用する登窯タイプと単独形式の丸窯タイプ)からくることだが立地条件による影響のことでもうひとつ、北も南も窯趾というところは必ずといっていいほどに今思うと交通の便の悪いところにある。出来上がった作品を消費地に運ぶためにどうしてもっと交通の便の良いところに窯を造らなかったのだろうか。今回の一番の難所であった龍泉の大窯視察中、同行の友人に「僕のアトリエがここだったら買い付けに来てくれるか?」と尋ねたが、「無理だよ!」と云われた。しかし、数百年前ここから焼き上がった作品を荷駄に乗せ、筏に積み、帆船を利用して遠く日本まで運ばれて来たのだ。この事実は如何に原料、燃料を沢山必要としたか、即ち、失敗が限りなく多かったことを物語っているのだ。今の私は原料、燃料の便で『大磯』に住んでいるのではない。「トラックさえ入れば何処でも出来る」なんて云ったこともあった。これは如何に失敗が少ないか、否、失敗を少なくしているのだ(成功したと思い込んでいるだけかもしれない)。もっと、もっと自分に厳しく律しなくてはならないと反省させられた。このことが、何度かにわたり中国のさまざまの窯趾を視察させて頂いたことによる収穫だった。

(日本陶磁協会「陶説」に寄稿1998)