
| この夏、縁あって同世代の陶芸家三人で、紫砂茶壷(紫泥急須)で名高い中国の宜興『丁蜀鎮』を尋ねることとなった。後述するがこの三人の友人関係は、第三者から見たらたぶん不可解に思われるだろう。今回の目的は宜興『丁蜀鎮』に現在残る最後の一基となってしまった、明時代の『龍窯』の保存と再興、それに現地の陶芸家との交流にあった。
『上海』に入り今回お世話になる中国芸術研究院陶瓷創作研究室の「高振宇」氏の出迎えを受け、先ずは中国の大自然を味わいたく『黄山』に直行する。安徽省南部に位置する『黄山』はまさに中国「山水画」の名山である。今回はロープウエイで山頂近くにあるホテルに宿をとり、雲海に浮かび怪石を誇る『飛来石』まで三時間ほど登山をして、三人はそこに腰を降ろした。雲の流れにより刻々と変化する様は、まさに「天海」そのものであり、それに浮かぶ峰峰は『千変万化』、切り立った岩岩は『千巌万壑』、松の枝枝は『千姿万態』、何時間いや何日、居ても飽きることのない絶景である。古くより多くの画家が訪れたというが、画家でなくともこの山水の世界は人を限りなく「想像するという世界」に導いてくれる。目の前にある山を観ていても、雲の流れによりほんの数秒前と全く異なった山に見えてくるし、また、雲の向こうには? 霧の下には? どんな景色があるのだろうと目を凝らす。我々の作品もこんなふうに見えたらいいなぁ! と思い悩んだ。
たっぷりと目のご馳走を頂いたあとは、口とお腹がすっかり飢えていることもあり『杭州』へ、旅行社扱いの食事は高くて量が多すぎる・・・・・、で今回は当地でお世話になる運転手さんに「ふだん友人と食べる所」という条件をだし、朝食以外は彼に案内して頂いた。『東坡肉』『トウミョウ』『カモのスープ』『龍井蝦仁』など美味しいものばかりで量もほどよく注文してくれ、嬉しいことに価格が桁ひとつ違うのだ。今回は甘党の友人もご一緒、夕食後は例のこってりと甘い御菓子を食べるべく店を変え、私は少しだがたっぷり口に運び、食べ残ったものもホテルへ。翌朝、抹茶のお菓子となるのだ。ホテルはもちろん「シャングリラ」とした。
目も口もお腹も満足し、今回の目的である『宜興』へ向かう。途中『良渚』の博物館を拝観し、『玉』『黒陶』など古くささを全く感じさせない造形を沢山覧る。宜興『丁蜀鎮』に着き、早速今回この地でお世話になる「高」氏の義父であられる「徐 秀棠」先生を尋ねる。先生は『中国工芸美術大師』の称号を持つ陶芸家である。この宜興『丁蜀鎮』は、江蘇省宜興市の中心地より南へ十三キロメートル、東に『太湖』を望むところにあり。磁器の都『景徳鎮』に対し、『陶器の都』として、古くは新石器時代には「土器」戦国には「灰陶」その後には「古越磁」、現在も「やきもの」関連に暮らす人が殆どで、百軒以上の窯があるとのことだ。宜興紫砂茶壷(紫泥急須)を中心として、水がめ、植木鉢、今では建築資材までも生産しているという。
早速、明時代の『龍窯』を御案内頂くがこれがびっくり、全長約五十メートルはある。同行の二人の方がこのようなタイプの窯は詳しいのでここでは譲るが、高さ、幅は人がやっと入れるくらい。外姿態は恐竜の骨格のようで、詰め口が数メートル毎にいくつもあり、窯詰め、窯出しが合理的構造になっている。二人は感心することしきりで、今度、日本で窯を築く時はこれを参考にしようなんて言っていた。また、焼成時間は三十時間と聞かされ驚いた。このように長い大きな窯をそんな短時間で焼き切ることが出来るのか、それに燃料は松材だが直径二、三センチメートル位の枝と松葉だけと説明されるが、これまた信じられなかった。これを信じてこの窯を使わせて頂くにしても、作品を窯一杯にするには三人だったら一年はたっぷり掛かるだろう。もっともっと大勢の参加者が必要だし、火を入れるのはかなり先のことになりそうである。
市内にある「宜興陶瓷博物館」には、印文の「灰陶」、「古越磁」などこの付近で出土したものが多数陳列されていた。また、この地の陶芸家の作品も沢山並んでいた。ほとんどが伝統的な「急須」だが、「急須」以外にも日本で今流行っている作家の亜流的な物までもあり、情報の早さには驚いた。
一旦、ホテルに戻り、夕刻「徐」先生のお迎えを受け夕食をご馳走になった後、御自宅にお伺いして「お茶」のお招きを頂く。立派な室内で家具も豪華で、居間にあったテレビはわが家の数倍もあるワイドテレビであった。なん煎か頂くが、この地のお茶はほろ酔い加減の私にとっても、香もよく、心地よい気持ちにさせてくれた。
翌朝、当地の「急須」制作工程を拝見するが、ロクロは使用せず、手びねり、叩きによる伝統的技法には感心することしきりである。注ぎ口もヘラ一本で作り、研磨は水牛の角のスライス板である。「急須」の様な丸い形のものは当然ロクロ成形と思っていたし、手びねりであのように丸く作る技法は、私にとって驚き以上のものがあった。第一、『丁蜀鎮』にはロクロは一台もなかったということだ。今回、我々が訪問するということで急遽『景徳鎮』より二台取り揃えてもらったそうだ。このロクロを我々三人が使用することになるのだが、「徐」先生の工房のお弟子さん達十人程はロクロ成形を見ることはまったく初めてだそうで、熱心に目を注がれた。ところが、今回の三人、まったくロクロに対する考え方も、姿勢も、違う。中国の方からみれば日本人三人が来てこんなにてんでバラバラのロクロをすることに驚いていたようだ。最後の晩、このお弟子さん達を囲んで夕食を取ることとなったが、このことが話題となり、意見を聞くと『A氏は伝統的ロクロ』『B氏は現代的ロクロ』『C氏は優雅なロクロ』と評してくれた。たった四日間程のことで、この様に見抜いてくれたことには嬉しくもあり、流石と思った。その返しとしてA氏は、『B氏はエレキギターの演奏者』『C氏はバイオリンの演奏者』『私(A氏)は尺八の演奏者』と身振りを交え伝えたが、大爆笑となった(尺八は知っているのか?)。又、彼等にもロクロを伝授しようとA氏は教えにかかるが、流石土に慣れ親しんでいるせいか、ちょっとの間である程度のこつは覚えてくれたようだ。たぶん、我々が去った後この二台のロクロは取り合いになるのではなかろうか。
さて、先の『龍窯』のことだが数年前までは、全てこのタイプの窯を使っていて沢山の窯が煙をはいていた。ところがガス窯、トンネル窯等の近代的な窯が入ってあっという間に『龍窯』は使われなくなった。成る程、この地の作品は『火色』『灰掛かり』と言うような窯の中の『炎』と云う日本人的こだわりは全く考えてなく、否、あってはいけないのでありガス窯等の近代的窯でロスも少なく安定性を優先され、『龍窯』で焼く意味合いがないそうだ。しかし、今回お世話いただいた「高」氏は日本に来て三年程陶芸の勉強をしたこともあり、この『龍窯』をどうしても保存したいとのことであった。
アトリエにあった使い込んである「急須」の肌は仕事場にある窯から出たばかりの肌とは、どう見ても違いしっとりとしている。使い込んだ肌には魅力が感じられた。「徐」先生にこの違いをどう見ているかを尋ねると、これは全く我々と同じ考えで、使い込んだ肌を十分意識しているとのことであった。このことは大変嬉しかった。
四日間ほどの滞在であったが、十人程いたお弟子さんの内に、自然と三人それぞれのアシスタントのような担当者が出来てしまった。それもA,B,Cそれぞれにぴったりの人柄であり、驚いたし面白かった。この三人は土をもって『よりよきもの』を作ろうとすることは同じだが、考え方、攻め方、表現方法全く異なった、否、相反する三人である。それぞれを認め合い、尊敬しながらも、互いの世界には全く入り込まないことも当然であり、唯、刺激を受けたいだけなのだ。今回は、互いの仕事振りを見せ合うこととなってしまったが、『土を愛し可愛がる人』『土から何かを引き出そうとする人』『土を自分のものにしたい人』三者三様であった。この癖のある三人を一緒に連れ出してくれたD氏へも、よく企画してくれたし感謝している。
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日本陶磁協会「陶説」に寄稿(549号 1998.12.1) |