生きた土 死んだ土
酒会壺を囲んで
汝官窯への想い
三千年目の再会
中国北方の旅
韓国 慶北 間慶窯にて作陶
そこに座れ
上林湖、景徳鎮の旅
中国江南の旅
宜興 丁蜀鎮
デビットコレクション
青磁の魅力を探る
和様と唐様
初代川瀬竹春
高麗青磁素文蓮花形碗
淡交会講演原稿抜粋
安宅コレクション
テストピースの制作
亡き弟からのメッセージ
魅せられた青磁と自作
奥深き中国陶磁の魅力
もし、出会っていなかったら
外焔
(孫 陶芸家)
  「虎蔵」私はひょっとして、こんな名前になっていたかもしれない。色々あって、「忍」になった。経緯はさておき、私の名付け親は、祖父=『初代、川瀬竹春』である。 今になって思えば(当時は赤ちゃんだが)、この名前のおかげで、性格、行動、果ては、陶芸家としての「作行き」までもが影響したようである。「虎蔵」だったら、もうちょっと、いや、大いに今とは違う雰囲気のものを制作しただろう。人生の結果は出てないが、本人は「忍」でよかった!と感謝しております。 私が物心ついてからは、祖父は郷里(輪之内町)の近郊、大垣市に隠居(?)と称して暮らしていた。ただ、月のうち半分くらいは、神奈川県の大磯(祖父の長男=二代竹春が継いだ窯がある)に来て、仕事をしていた。その半月は、我が家は大変なことになる。それは、祖父は大変厳しく、頑固一徹で、私の両親は、ピリピリしていたことが、子供ながらに感じていた。ただ、孫にとっては、おじいちゃんが大磯に来てくれることは嬉しかった。祖父のご馳走のお下がりが貰えるからであった。また、朝「おはようございます」と部屋へ挨拶に行くと、甘いものを頂けた。 18歳の時、父のもとで、家業の修行に入った。その頃には、祖父も大磯に居を構え、父と共に三世帯での暮らしである。祖父の夕食は午後四時過ぎに始まるのだが、父は仕事があり、孫の私が祖父のお相手、といっても、祖父の前に正座し、徳利を持ってお酌をするのである。父が仕事を終え、食卓に付く6時までの2時間近くの間、祖父の盃の残量を見ながら、お酌をしながら、昔の苦労話、や「ものの見方」を教わった。たまに、「お前も一杯呑むか」と盃を渡され「酒は呑んでもいいが、呑まれるな」と頂いた。おかげで、仕事よりも、こっちの方が早く覚えたかもしれない。 何度も同じ話が繰り返されたが、「はい」と答え、聞かされた。その時は、「早く父が来ないか」と、この2時間がとても永く苦痛であった。今思うと、聞かされた沢山の話が、いくつも、脳裏に残り今日の自分が形成されたのだと思える。そんななか、一番残っていることは、「ものの見方」である。当然、最初は『眼で見る』次に『手取り』を感じ、返して『高台』を見る、納得できると、無意識のうちに親指の腹で高台を撫でたくなる。口をつけるものは、触れて見なさい。最後は「異性と同じなんだぞ!!」と酔っぱらって言っておりました。   今日まで、青磁を研究し続けられたのも、祖父のおかげです。修行に入った頃、父は絵を描くことを許してくれませんでしたし、勝手なことは出来ませんでした。 ひたすら、父の言われるまま、生地を作ることに専念させられておりましたが、ちょっと欲が出て、小さな鉢に釉薬を濃く掛けました。それを祖父に見つかり、「お前、青磁がしたいのか?」と聞かれ、「はい」と答えたら、祖父の参考品の中から、南宋時代、龍泉窯の『袴腰の香炉』を「これをお前に渡すから、負けないものを作ってみろ!」と預かりました。これが、青磁に入るきっかけだったのです。 父に対しても、この祖父が言ってくれた一言により、この研究だけは、許してもらえました。色味を繰り返し、何度も挑戦し、その都度、祖父に見てもらいましたが、釉薬の色よりも、『形』『手取り』そして『高台のヘラの切れ味』を、やかましく、言われ続けました。 とかく、焼き物を評する場合、表面的な視覚のみをもって、云々されがちですが、祖父はその先にあることを、絶えず、口癖のように言っておりました。 そんなことが、祖父が他界し20年以上が経った、最近、ようやく、わかってきたような気がしてまいりました。

(輪之内町(岐阜県)郷土史編纂へ 2004.8.16)